昨晩NHKの関東版で、3人の大学生の就職活動を悲喜こもごもに
放送してた。今は、今の若者は特に、勝ち組・負け組という区別
に敏感らしい。内定を4社から貰った東大生は、「しっかり努力
した人達が、報われるのは当然である」という、格差容認のスタ
ンス。女房は「こういうのがいるから、金、金、金、のホリエ
モンみたいのが出てくる世の中になっちゃうのよ」って憤りの
発言。僕は内心、いまの若者もこういう感じのアメリカ的な発想
する人達がふえたんだなぁ〜と、20年前のアメリカをふと、
思い出しました。(全くテレビの内容とは逸脱して)。


自分たちが若い頃は、まだ、社会主義共産主義思想が闊歩して
いた時代で、エリートの中にも、アメリカ的な、純粋に、金を
追い求める思考を侮蔑していた風潮がありました。特に、今の
団塊世代から52〜53才くらいの人達は、学生運動の真っ只
中で、僕らのようなノンポリ世代とは違う。それでも僕の高校の
同級生には、京都の大学で、赤色系アングラの活動してた奴も
いたし、国立一期校の医学部振って、調理師になった奴もいる。
彼らの(僕には、なかったが)スタンスは、大組織への反逆って
いう(ひとくくりにしちゃうと)プライドが、あったんだよね。
それが、昨日のテレビを見ていて、大学生気質もだいぶ変わった
なって、思った。まるで、アメリカの大学生にインタビューして
答えている様な錯覚がありました。


格差とか、勝ち負けに頓着する発想は、はっきり言ってアメリカ的
なんです。


日本には、地域血縁関係に根ざしたもの、敗者を救済するため
の生活の知恵や互助があったんです。70年代中盤くらいまで
は、エリートを小ばかにする、上述した私の同級生達の様な矜持
(プライド)もあったんです。だから、これがいま必要だ、
ではなくて、現象として若者がアメリカナイズされてきたと、見る
べきでしょう(少ない事象を捉えて一般化はできませんが。まだ
まだ、そうじゃない発想の若者も多いですから)。



僕なんか、さしずめ負け組の中の負け組、だろうな。大学卒業に
8年も費やし、出ても会社転々として、結婚も遅れ、今の給料も
安い(A社長ごめんなさい!)。でも、精神的に満たされている
からいいよ。別に。負け惜しみかな?
格差っていえば昔からあったんだよ。金持ちが金を税金以外に、
社会に還元する風土が昔は、日本にあったが今はない。自分の
祖父はアメリカで一財産築いて、そのほとんどを軍国日本に
供出した。当たり前の事を金持ちがすれば、我々持てない者が、
もてる者に対して敏感になる事はあまりない。高学歴で無職で
いても、周りがその人を尊敬できる風土も日本にはあった。


僕が、高校時代、英語だけ個人の塾で習っていた。その人は
仙台の人で、旧制二高から東大卒、戦時中海軍の参謀で要職
にあった人。子供がなく、奥さんはパートでイ○ーヨー○堂で
仕事をしていた。その個人塾の先生はいわゆる戦争犯罪人で仕事
につけず、そういう個人塾などでの仕事しかできなかった。彼は
負け組でしょう。今の言い方でくくれば。でも、尊敬していたな。
自分は。粋だったよな。立派な英語の原本を生徒に譲ったり、
昼間から、着物着たりしてね。
勝ち負けより、金持ってるか持ってないか、ではなく、「粋」な
生き方できたか、出来なかったか、拘泥する(こだわる)人達が
多かったんだよ。昔は。
昔、昔って言ってるようじゃ、俺も年かな・・。「粋」に生き
たいもんだ。


明日のカラオケは、チューリップの「心の旅」を歌いたい。
Sさんは年甲斐もなく、またグレイかな・・・